apprivoiser
「LIVE YOUR LIFE」
音も光も時の流れすらも隔たれた、暗く冷たい水の中。
拘束され、全ての自由を奪われ…それでも最低限の生命維持措置は保たれていたから、彼にとって生きる事は最早苦痛すら感じなくなった肉体が浅ましくも生命活動を続ける事でしかなく、その先に広がるのは無明の闇だった。
ある日突然、胎内から引きずり出されるように、彼の体は解放された。
幾つも絡まりついていた鎖や管が外された代わりに彼の全身を苛んだのは、久し振りに触れた重く圧し掛かる空気の感触と虚脱感だった。
水に濡れた体は指先ひとつ動かす事も叶わないまま床の上に転がされ、どんどん熱を奪われていった。
苦しい、痛い、冷たい
長い間忘れていた感覚が蘇り、記憶を手繰り寄せながらそれにひとつひとつ名前をつけると、最後に彼は「生きている」と実感した。
「むくろ…」
小さな囁きと共に、閉ざされた瞼の裏に浮かんだのは光。
ただひとつだけ、闇の中でもずっと彼と共にあったその光は、触れずとも彼の体に熱を分け与えた。冷え切った体を巡り始めた血の流れと胸の奥を叩く鼓動が、固まった体を少しずつ溶かしていった。
声を上げる事も、呼吸をする事も思うように出来ず、目を閉じたまま小さく唇を震わせると、柔らかく重なった唇から呼気が注ぎ込まれ、ふわりと彼の体を温めた。
頼りなくて、優しくて、あたたかくて
ふわふわと漂うその感触は力を込めると逃げてしまいそうで…彼は自分の中に生まれた感情に名前を付ける事を放棄して、今だけは柔らかく包み込むぬくもりの中でその身を休める事を許した。
腕の中で無防備に眠る骸を抱き締めて、綱吉は万感の思いで呟いた。
「おかえり」
「猫に願いを」
誕生日パーティーの食材を主役に買いに行かせるのは何か違うんじゃないかと思いつつ、買い物袋をぶら下げてスーパーから出てきたオレの足を止めたのは一匹の黒猫だった。
最近近所でよく見かけるそいつは野良のくせに人懐っこくて、色艶の良い真っ黒い毛並みを撫でるとすぐに気持ち良さそうに目を細めるから、獄寺君みたいな澄んだ緑の目が隠れてしまうのが残念だと密かに思っていたのだ。
「お前、今日はこんなトコまで遠征してきたのか?」
いつもなら手を差し伸べるとすぐに寄ってくるのに、伸ばした手を避けるように長い尻尾を揺らして夕暮れの道をさっさと歩き出した。違う猫じゃないよなあ、なんて思いつつ帰る方向は同じだったから後を追うように歩くと、スーパーから角を一つ曲がって人気も途絶えた辺りで猫がくるりと振り返った。
『いー加減気づいたらどうですか?』
しゃーっ!と威嚇するように大きく開いた猫の口から、ではなく、頭の中に直接響くように聞こえた声に思わず周囲を見回すが、聞き覚えのあるそれに結びつく人影はある筈もなく…。
「…空耳?」
こちらを見上げてくる猫に問いかけるように首を傾げると、行儀良く前足を揃えて座り込んだ猫の黒い尻尾が路面を叩くようにぴしりと大きく揺れた。
『全く…それだけ緊張感がなくて、よく生きていられますね』
沢田綱吉、とオレの名を呼ぶその声音は間違えようがなく、恐々と覗き込んだ猫の両目がいつもの緑ではなく赤と青の一対である事に漸く気づいたオレの手から買い物袋が滑り落ちた。ぐしゃり、と嫌な音を立てた買い物袋を一瞥すると、そいつはなだらかな喉元のラインを見せつけるようにくい、と顎を上げ、口をぱくぱくと開けているオレを呆れたように見上げた。
『卵、割れてませんか?』
再び聞こえた冷静な声に、
「……今日はオムライスだから、多少ヒビ入っても大丈夫だと思う」
我ながら立ち直りが早くなったと言うか、順応性がついたと言うか…神様、またひとつオトナになるとゆー事は、こーゆー事なんでしょうか?
「卵はともかく…何でお前がこんなとこにそんな姿でいるのか聞きたいんだけど?」
ねえ、骸?と問いかけた声を無視して再びさっさと歩き出した猫…の姿をした骸に内心むっとするが、うちに帰るにはこの道しかないから買い物袋を拾い上げて、先を歩く小さな背中の後ろに流れる長い影を眺めながらとぼとぼと歩き出した。
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