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Sinfonia Concertante



「Peut-on vivre sans amant ?
   好きな人なしでは生きられない。」

 古ぼけたピアノを前に獄寺はじっと立ち尽くしていた。
 強張った肩はそれを睨んでいるように見えたのに、ピアノの表面にうっすらと映る獄寺の顔は迷子のように放心していた。
 指先が動いては、止まって、動いては止まって。
 その間、何度か周囲を見回して、特に背後に注意して誰もいないことを確認して、ようやく獄寺はピアノの蓋を開けた。
 少し黄ばんだ鍵盤を獄寺は押した。ポンと漣のような余韻を従えて指先から音が広がる。獄寺は調律を確かめるように、ゆっくりと指一本で叩いて、それはいつのまにか耳慣れた曲になっていた。たどたどしく紡がれるその曲は幼稚園生でも知っている。
 きらきらひかる よぞらの星よ
 知らず、歌詞がこぼれる旋律を獄寺は何度か繰り返して、合わせて口ずさみ始める。
 それは異国の言葉のようで意味はわからないけれど、少なくとも子供が元気よく歌うきらきら星とは趣が違っていた。どこかすがるような、祈るような、痛ましいものに聞こえて我慢できなくなったオレは獄寺が嫌がるのを判っていて声をかけた。
 本当は、獄寺がピアノを弾くなんて絶対みられない貴重な物だったのに。ツナの事は絶対に聞く獄寺が唯一やらないこと。やれないんじゃない、獄寺は明らかにピアノを弾くことを拒んでいた。
 ピアノを含む楽器は自分が弾くものじゃなくて、音楽の授業の中のみに存在するものだった。クラスの女子で何人かピアノを習っていると聞いたことがあるけど、オレにとってはどうでもいいことだった。だから最初、獄寺がピアノを弾けるって聞いてもたいして興味は無かったし、弾かないのも、今はもう弾けないからだと思っていた。なのでピアノを前にして獄寺が躊躇っている姿は、我慢をしているようにも見えて、声をかけ辛いほどの違和感があった。
 長時間悩んでやっと弾き始めたつたない感じは、予想が当たって“やっぱり弾けないんだ”と思った。
 けれど、ずっと聞いているうちに獄寺の普段見せない、ホントの感情みたいなものを感じてしまった。
 オレが知らない獄寺。荒々しくて、強情で、どうしようもない不良のくせにどこか無理しているよう見えるのは獄寺がガキだからだと思っていたけれど、きっとこういうことなんだろう。嘘っぽく見えるのは、まるで子供のように、そう、さっき見た迷子の子供のようなのが、獄寺のほんとのとこなんだろう。
 なんて表現したらいいのか言葉がみつからなくてもどかしくなる。
 こんな感情は生まれて初めてだ。
 ただこのまま獄寺をひとりにしてちゃいけないような気がした。ただそれだけでオレは名前を呼んだ。
「獄寺」
 隠しようがないぐらい背中を震わせて、音が途切れる。獄寺の音が聞けないのは残念だと思った。でもそれ以上に振り返った、泣きそうな獄寺の面を見たら、演奏を止めさせて正解だったと、思った。
「Peut-on vivre sans amant ?」
 音が消えて、宙につぶやく日本語でも英語でもない響きは、獄寺をまるで別人のように見せた。
 眉間に皺を寄せた同い年の友達が違う存在に見えて、思わずオレは両手を伸ばして獄寺を抱きしめてしまった。


 出生の真相と一緒にピアノは記憶からも経験からも封印した。無茶をする癖は自殺願望の一種だろうともとうに自覚している。ダイナマイトの火種の煙草もその一環だろう。誰に言われるまでもなく、自分の人生はいつ終わっても良かった。じゃあ自分で死ねたかというと、それはできなかったし、きっとあの人はそれを望んでいないんだろうと思えるぐらいには冷静に考えられるようになっていた。
 それもこれも10代目のおかげで。正確に言うと山本やリボーンさんのおかげでもあると思ってる。多分。
 ――多分それだけじゃない。
 人を好きになった。からだ。
 これは間違った感情だと思う。思春期特有の未熟な精神が、他人の自分が持っていない部分に憧れを持って、それが好きだという風に変換しているんだろうと分析する。
 でもどうしても抑えきれなくなっている。
 何かを隠して生きていくのは簡単だと思ったのに、今育っているこの感情は時々なにかのタイミングで零れそうになる。知られてはいけない、知ってほしくない、バレたが最後、それこそ死にたくなるぐらいに恥ずかしくてたまらない気持ち。触りたい気持ちもキスをしたくなる欲望も全て煙草で紛らわせてきた。詩人はこういうときに詩を紡ぐんだろう。小説家はこういうときに言葉に迸らせるのだろう。音楽家は、絵描きは、歌唄いは――。全ての芸術の源をみつけたような、そんな大袈裟な気持ちを抱くぐらいにこの間違った感情は膨れあがっていた。
 そんなときに、通りがかった音楽室。テスト期間中、誰もいないそこはまるでオレを待っていたかのように細く隙間が空いてピアノが見えていた。
 一瞬、罠かと思った。ばかだな、学校にそんなもんがある筈ないのに。
 ビビり過ぎだと自嘲してピアノに近づく。
 今まで何年も無視していたその楽器の存在感は目眩がするほどに重厚でそして懐かしいものだった。銘があるわけでもない、ただのアップライトのピアノなのに。もう何年も何年もこの板間に置かれて吹きっさらしにされているようななんでもないピアノなのに。まるで自分を試されているようで、ピリピリとした緊張感に冷や汗が出てきた。勝手に恐れを抱くぐらいビビってる自分が可哀想に思えて鼻を鳴らす。
 悪かった。おまえが悪いことなんて何一つないのに。おれが辛いだけで、ただ思い出したくないだけで記憶の外に追いやっていただけなのに。
 すぅと深呼吸をして細い蓋を開ける。こんなに軽かったかと思うほどあっけなく開いた鍵盤の上、フェルトカバーを外しても覚悟は定まっていなかった。
 意を決して一つキィを押すと、身体中がざわめくほど懐かしい音だった。
 正確にはあのピアノとは全然違う音だったけれど、そんなことはどうでもいい。
 ドドソソララソソ ファファミミレレド
 モーツァルトの変奏曲。習ったときにはフランス語の歌詞の意味なんてなにもわかっちゃいなかった。

Ah! Vous dirai-je, Maman,
   ねぇ!言わせてお母さん。
Ce qui cause mon tourment?
   何で私が悩んでいるのかを
Depuis que j'ai vu Silvandre,
   優しい目をしたシルヴァンドル
Me regarder d'un air tendre;
   そんな彼と出会ってから
Mon coeur dit a chaque instant:
   私の心はいつもこう言うの
≪Peut-on vivre sans amant?≫
  「みんな好きな人なしに生きられるのかしら?」

 ――なぁ、名前もしらない――…。好きな人ができたんだ。最初はクソみてーに嫌いだったのに、なんでか視界から出ていかなくて、違うんだ、いつも目で追ってしまうんだ。おかしいよな。こんなのすぐ消えると思っていたのに、全然消えなくて、オレはおかしいのかな。――あなただったらこんなことを息子が言い出したらなんて言うんだろう。記憶の中のあなたはいつも笑っているから、何も言わずに抱きしめてくれるような気がする。俺の願望だってこともわかっている。でも人を好きになるってこんなに苦しいことだったのか?あなたは、クソ親父になんで惚れたんだよ。こんな辛い思いまでして、なんでおれを産んだんだよ。産まれたことを否定するんじゃなくて、なんでそうまでして親父が好きだったんだよ。あなたを殺すような、そんな……。
 親父があのひとを好きで、オレが産まれた。あのひとは将来どころか生活すらも捨てた。人を好きになるというのは、それぐらい激しくて辛いものならば、なんで人を好きになるんだろう。
 ずっとずっとオレは理由を探していた。
 けれど、理由なんてなかった。人を好きになるというのは、理由も理屈もなにもなくて、ただ、好きになる、それだけだった。
 それだけで感情が荒れ狂う。それだけで死にたくなる。それだけで、あれほど遠ざけていたピアノが弾きたくなる。
「Me regarder d'un air tendre ; Mon coeur dit a chaque instant :」

「獄寺」

「Peut-on vivre sans amant ? 」


 人を好きになったら、ただそれだけで泣きたくなる。
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